大切な人の死に目に会えなかった。
本当に辛いと思います。
最期の瞬間は立ち会ってあげたい。そばにいてあげたい。
この目で見届けてあげたい。
そんな思いを持っていても、悲しい現実は突然やってきます。
自分を責めないで
事情はどうあれ、間に合わなかったのは仕方がありません。
運命なのでしょうか。
でも、そうかもしれなくても、ずっとやりきれない思いが心に残ります。
伝えたいこと、私ろくに伝えられてないよ。
ひとことでもいいから、きちんと気持ちを伝えたかった。
ありがとうを言いたかった。
そんな苦しいおもいで、ただただ胸がいっぱいになります。
でも、自分を責めたりしないでください。誰かを恨んだりするのもやめましょう。
こうなってしまったのは誰のせいでもありません。
それに、故人は自分のことであなたが辛い思いをされるのを望んでいません。
故人はきっとあなたに色々ありがとねと思っているはずです。
あとは頼んだから、自分の分まで人生を楽しんでねと心から思っているはずです。
臨終の前後はすべて看取りの時間
看取りとは最期の瞬間に立ち会うことだけをいうのでしょうか。
私はそうは思いません。
生があれば死があるのがこの世の中。
人は生まれた時から死に向かって歩んでいるのと同じです。
もし、その中で、その方のために看護や介護に力を尽くされたなら、それは立派な看取りといえるのではないでしょうか。
ご遺体と対面してから、お葬式、火葬、収骨という一連のお別れに立ち会われたなら、それも看取りではないでしょうか。
故人のために尽くした臨終の前後の時間はすべて看取りといえるのではないでしょうか。
冷たい手を握ったこと。
やさしい言葉をかけてあげたこと。
感謝できたこと。
涙したこと。
すべてが看取りの時間です。
故人のためにもいつかあなたが立ち直って笑える日がくるように、気持ちの整理をしてみてください。
再会できる日を信じて
もう一つだけ。
「倶会一処」(くえいっしょ)
人が成仏をすると、もう一度大切な人と会えるといいます。
つまり、今のお別れは一時的なお別れということです。
亡くなられた方が戻ってくることはありませんが、
いつか再会できるその日があるのを信じて、故人の分まで人生をたのしんでください。
そして、過ぎ去ったことよりも、故人に感謝をしながら、供養を続けましょう。